没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

グリーンツダボクシングジム / 会長 本石 昌也 氏

グリーンツダボクシングジム。スポーツ好きならもちろん、そうでない人でもこの名を知る人は少なくないだろう。1980年2月に西成区天下茶屋で設立され、現在は俳優として活躍する(※1)赤井英和、世界チャンピオンになった(※2)井岡弘樹、(※3)高山勝成らを排出した歴史あるボクシングジムである。しかしこの名門ジムは2009年に一度、破綻した。そこかららの復興を果たした人物が、4代目である現会長の本石昌也氏だ。

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

(※1)赤井英和:日本の俳優、タレント。元プロボクサー。大阪府大阪市西成区出身。近畿大学商学部卒。 ボクサーとして「浪速のロッキー」の異名を取る活躍を見せた後、俳優に転身。

(※2)井岡弘樹:日本の元プロボクサー、タレント。 第2代日本ミニマム級王者、元WBC世界ミニマム級王者、元WBA世界ライトフライ級王者。大阪府堺市出身。現役時代はグリーンツダボクシングクラブ所属。エディ・タウンゼントの最後の愛弟子。井岡弘樹ボクシングジムの会長を務める。

(※3)高山勝成:日本のプロボクサー。大阪府大阪市出身。第19代日本ミニマム級王者。元WBC世界ミニマム級王者。元WBA世界ミニマム級暫定王者。元IBF世界ミニマム級王者。元WBO世界ミニマム級王者。日本人として初めて主要四団体で世界戴冠を果たした人物。


幼少期にマイク・タイソンに衝撃を受けて以来、熱烈なボクシングファンだったが、競技経験はない。そんな本石氏をボクシングの世界に引き入れたのは、あるひとりの選手の存在だった。その選手とは、(※4)小松則幸。1997年に当時18歳でプロデビューした、フライ級の選手である。

(※4)小松則幸:日本のプロボクサー。大阪府寝屋川市出身、大阪府立枚方西高等学校卒業。第29代ならびに第34代OPBF東洋太平洋フライ級王者。。2009年4月13日(29歳没)

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」
この選手は、絶対に世界に行くなと思ったんですよ。世界挑戦だとか、声が上がる前で、まだ日本ランキングに入ったくらい。これからのボクサーといわれていた選手でした。彼の華やかさやスター性にすごく惹かれて、一気にファンになってしまいました

特別なスピードや、パンチ力があるわけではない。だがリングに上がれば、どれほど打たれても血を流しても表情を一切変えず、相手を見据えて突き進んでいく。ブレないボクサー。そんなファイトスタイルに魅了された。とはいえこのころもまだ、ただのいちファン。しかし彼との偶然の出会いが、その後の本石氏の人生を大きく変えることになる。

ある日に偶然、街で小松選手を見かけたんです。本当に大ファンだったので走っていって、『あなたの大ファンなんです』って声をかけて握手してもらいました。それが小松則幸との初めての出会いでしたね

あまりにも突然の、悲しき別れ



そこから交流を持つようになり、互いの自宅が近かったこともあって関係が深まる。やがて本石氏は彼のサポートを買って出るようになり、個人マネージャーを経てトレーナーを務めるまでに至った。そんな関係が4年ほど続く間に小松選手は実力を上げ、世界が視野に入るところまで来た。

2009年5月に、亀田3兄弟の次男 (※5)亀田大毅との対戦が決定する。勝者が当時、WBC世界フライ級チャンピオンだった(※6)内藤大助への挑戦権を得るという、本石・小松陣営にとっては待ち望んでいたビッグマッチだった。

(※5)亀田大毅:日本の元プロボクサー。大阪市西成区出身。元WBA世界フライ級王者。元IBF世界スーパーフライ級王者。世界2階級制覇王者。現KWORLD3ボクシングジム会長。 亀田三兄弟の次男で、亀田興毅の弟であり、亀田和毅・亀田姫月の兄である。

(※6)内藤大助:日本の元プロボクサー。 元WBC世界フライ級王者。第49代日本フライ級王者、第35代OPBF東洋太平洋フライ級王者。宮田ジムに所属していた。 引退後はタレントやボクシング解説者として活動。 北海道虻田郡豊浦町出身。

あのときの僕らの気持ちの高まりは、すごかったですね。練習も今までよりさらに追い込んでやって、試合の1ヶ月前に、ふたりで滋賀県の大津市で合宿を行ったんですよ。4泊の日程で、最終日は昼には大阪に帰ることにしていた、その午前中でした

地元の人に「すごくいい滝がある」と勧められ、その場所へ足を運んだ。しばしの時を過ごし、小松選手は「滝壷を見てくる」といって本石氏のもとを離れた。

小松が帰ってこなくて、いつもすぐどこかに行くやつだったので『散策でもしてんのかな』くらいに思っていたら、いつまで経っても帰ってこない。ずっと探したけど3時間経っても見つからず、いつの間にか周りが暗くなってきて。これはおかしい、ただ事じゃないと思って僕は『小松、小松!』と叫びながら周囲を探し回り、レスキュー隊に出動をお願いしました。そうしたら……
滝壷のなかに沈んでいる、小松選手が発見された。おそらく足を滑らせたのだろう。水難事故だった。
彼が引き上げられたときは、固まっていて体も冷たくて。僕は気が付いたら、彼の手を握っていてね。今でも忘れませんが、ひと言目に言ったのは『試合どうすんねん!』という言葉でした。泣き崩れるというか、正直そんな状況じゃなかったですね。あのころは1ヶ月間ぐらい、本当にずっと泣いていました
もうボクシングとは、縁を切るつもりだった。だが運命は、そうではなかった。
小松家のみなさんから、告別式での挨拶を僕にしてほしいって言われたんですよ。一度はお断りしましたが『本石さんが喋ったら、あの子も喜ぶので』と仰っていただいたので、お引き受けしました


没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

小松選手とのことをさまざまに話した最後に、本人も思ってもいなかった言葉が口をついた。
『小松の夢は終わってしまったけど、オレらのコンビに終わりはない。小松は世界チャンピオンにはなれなかったけど、夢を引き継いで、オレは小松則幸とボクシングの世界で生きていく。いっしょに世界チャンピオンを作ろう』ということを言ったんです。本当に無意識で、なぜかその言葉が出たんですよ


ジム再建に着手するも、困難は続く



ボクシングの世界で生きていくと決めた。当時は金融関係の仕事に就いていて多くの収入を得ていたが、告別式の翌日にその職を辞し、グリーンツダジムのマネージャーに就任する。そのタイミングだった。またも過酷な出来事が、本石氏を襲う。

グリーンツダジムの経営陣が、破綻したんです。小松がいなくなった。ジムもなくなる。なにもない状態。ゼロどころか、マイナスからのスタートだったんですよ。だけど小松は、絶対にあきらめずにやってきた。僕もここであきらめず、道を切り拓いていく。そういう思いで、ジムを再建することにしました

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

再建にあたっては外部からジムを応援してた人たちが資金を援助し、当時はマネージャーだった本石氏が実質的に運営することになる。ジムの破綻時に離れた所属選手も、呼び戻した。小松選手との関わりでトレーナーの経験はあったが、ジムをマネジメントするのは初めての経験。

ジムを運営する側になっても、試合を組んだこともないし、わからないことだらけ。本当に、そういうスタートでした。所属選手たちに試合をさせるのに、興行をやるんですよ。会場を借りて、そこに自分のジムの選手を試合に出す。対戦相手も探して、試合ができる環境を作る。だれかがファイトマネーを出すんじゃなくて、興行主の自分が全部それをしないといけない。1回の興行で数百万円、下手したら1,000万円ちょっとの費用かかるんです

最初のころは持ち出した経費すら、回収には至らない。自己資金を使ったばかりか、マネージャーだった当初の4年は給料すらない。身銭を切ってでも、ジムの再建に奮闘した。それもすべては、亡き盟友に誓った約束のため。

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」
それしかないです。そこは僕のなかで一切、ブレなかったですね。約4年間給料がなくて、自分のお金を吐き出した。それを使い切ったときくらいに、いろんな方々の後押しを受けて、2014年にグリーンツダジム4代目の会長に就任しました


会長に就任、足下を見失っていたことに気付く



だが会長に就任した途端、マネージャーの時代にはそれなりに勝てていたのに、選手が試合に勝てなくなってしまう。会長になって最初の興行は、小松選手の命日である4月13日に行った。華々しい船出を飾るつもりが、自信を持って送り出した所属ジム9選手の戦跡は、3勝6敗と惨憺たるもの。これほどまでに望まぬ結果が出た以上、なにかを変えないといけない。

だけどそれに気付かなくて、1年くらい経過してしまったんです。当初は朝から走らへんからや、練習時間が短い、気持ちが弱いとか、選手にばかり原因を押し付けていました

本石氏は、自分がなぜジムを再建しようとしていたのか。知らず知らずのうちにその初心が揺らいでいることに、気付かずにいた。
こういうジムはプロ選手を育てる一方で、ジムを運営をするためにフィットネスの会員さんも募集して、運営費用を集める必要があります。それにも力を注いだんですよ。結果的に会員さんはすごく増えて、それなりの会費収益がありました

そうした経営方針をとり、会長就任から1年後にはジム運営は落ち着いてきた。だがそのころ本石氏は、自らが志した原点と現状が異なっていることに気付かされる出来事に遭遇する。

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

あるプロ選手が翌日が計量、2日後に試合というタイミングでした。計量の前日に彼が『明日は軽量なので会長とのミット打ちを軽くやったら、今日は上がります』って言ってきたときに、僕はフィットネス会員のミット打ちを受けていたんですよ。それで選手に『ごめん。一般会員さんが待ってくれてるから、ちょっと待ってて』と伝え、一般会員さんのミットを受けていたら、その選手が『会長、すみません。減量でしんどいので、帰ります』と言って大事な選手をそのまま帰してしまったんですよ

初めてのジム運営。しかも一度は破綻しているそれの再建に必死になるがあまり、一番大切な足下を見失ってました。

そのときに、はっと気付いたんです。世界チャンピオンを作るためにボクシングジムの会長になったのに、いつの間にか一般会員さんを集めて、毎月の会費でジムを運営していることに。こんなことでは試合に勝てるわけがないし、勝つどころか世界チャンピオンなんて一生できるはずがない。実際にその選手も、試合に負けました。このままでは小松との約束も果たせない。ようやくそこに気付いたんです

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

これを機に、本石氏は自分を変える。一般会員には事情を話し翌月、全員に退会してもらった。収入は1/5になり、家賃を払えば消えてなくなるほどだった。だが本石氏の心意気に賛同する支援者に支えられ、そのスポンサー収入でジムの活動を継続することとなる。

どんな仕事でもそうかもしれませんが、上手く行かないことばかりですよ。10あるとしたら9は失敗と辛いこと。だけど1つは必ず上手くいくことかうれしいことがあるんですよ。僕みたいなボクシング素人の人間がこの世界で上手くやっていこうと思えば、9失敗して成功は1。でもこれを積み重ねていったら、100にも200にも300にもなるじゃないですか。だけど多くの人は、それを積み上げずにあきらめるんですよ。それでは、人間的な成長はない。今も僕は失敗ばかりですが、その1つの成功を積み上げているんです
どれほどの困難にさいなまれても、本石氏を突き進ませてきたのは“ブレない心”。
そうです、僕のテーマです。1つの成功の積み重ねに対しても、自分が決めた目標と夢にもブレない。それに向かって失敗はあっても、ブレない心を持って取り組む。ブレない心というのは、小松が教えてくれた言葉なんです。小松は試合中もそれ以外も、ブレなかったんですよ


最大の目標である世界王者誕生まで、あと2年



最後に本石氏とグリーンツダジムにとっての、一大目標について訊いた。
世界チャンピオンは、あと2年ですね。今在籍している選手で、世界に行く人間がようやく見えました。新しくジムを始めて、日本チャンピオンを作るのに10年かかるって言われているんですよ。僕はそれを3年で、二人作りました

没落した名門ボクシングジムを再建したのは 盟友との絆と「ブレない心」

世界の壁は、やはり高い。だが、確かな手応えも得ている。
もうすぐ世界に手が届くかという手前で、何度も弾き返されました。でも着実に、一歩ずつ上がっています。日本チャンピオンになっても、最初は初防衛戦で負けてしまった。次のチャンピオンは、3度の防衛をして世界ランキング7位まで行ったけど、そこで弾き返された。だけど今いる若手で、それを超える能力を持った選手が複数いるんです

あと2年。グリーンツダボクシングジムの選手が大輪の花を咲かせる日が、ただただ待ち遠しい。

グリーンツダボクシングジム
本社:大阪市旭区清水3丁目1-16 新栄プロパティー千林Ⅲ5階
オフィシャルサイト:https://www.green-tsuda.com/


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