国内最大手義肢装具メーカーが実践する 不自由を自由に変えるダイバーシティ経営

オオサカジン運営事務局

2021年09月17日 09:30

川村義肢株式会社 パシフィックサプライ株式会社 / 代表取締役 川村 慶 氏

川村義肢株式会社は、大東市に本社を置く義肢装具の国内最大メーカー
1946年に初代・川村一人氏が創業、当時は戦争で負傷した元軍人や民間人の義肢制作を主に行っていた。3代目の川村慶氏が代表取締役となった現在は、人工ボディ車いすの製造住宅のバリアフリー改修パラアスリートの技術支援など幅広い展開を見せている。
同社は、「働く人が幸せでなければ、お客様を幸せにすることはできない」という創業者の想いに基づき、社員の働きやすさを重視したダイバーシティ経営を行う。具体的にどのようなものなのか、事業の変遷や今後の展望を伺いました。

ダイバーシティ:多様性という意味の英単語(diversity)で、組織マネジメントや人事の分野では、国籍、性別、年齢などにこだわらず様々な人材を登用し、多様な働き方を受容していこうという考え方のことです。また多様な人材がその実力を最大限発揮することができ、正当な評価を受けることができる企業風土の構築を目指すもの。

パシフィックサプライ株式会社/川村義肢株式会社のグループ会社
パシフィックサプライ株式会社ホームページ






アメフト少年から若手経営者へ


現・代表の川村慶氏は1969年大阪に生まれた。
学生時代は、アメリカンフットボールに熱中。きっかけは中学の時、西宮球場(現・西宮ガーデンズ)で友人と観戦したアメフトの大学対抗試合だった。激しいタックルをかわしながら、俊敏なパスとランで敵陣のエンドゾーンまで疾走する選手たちの姿に、川村氏は一目で魅了された。その日を境にアメフトの世界に進むことを決め、高校・大学ともにアメフト部のある学校へ進学。キャプテンを務めるなどして活躍した。大学1年の時松下電工(現・パナソニック)より声が掛かり、卒業後の人生も早々に保証されていたが、息子を後継ぎに考えていた母がそれを引き止めた。

「“大学出た後は義肢装具士の学校に行くんやでと言ってたやろ。そうやってあんたは自分のしたくないことからいつも逃げる”と母に言われたんですよ。
“逃げる”って言われるのが何より嫌で、“じゃあ義肢装具士の学校には行くけどその後は社長も会社も関係ないから!”と売り言葉に買い言葉を返して、結局大学卒業後は松下電工に行かず、母との約束を守るため義肢装具士学校に通ったんです」

最初は嫌々通う学校だったが、次第にもの作りの楽しさに目覚めていった川村氏。
アメフトをライフワークとして続けながらも、興味関心は義肢装具に関わる事柄へと変わっていった。
学校修了後は、2代目代表である父の命を受け、ドイツの義肢装具メーカーに2年間勤務した。その後日本に戻りKAWAMURAグループで4年働いた。
2000年に父である代表・一郎氏が他界したことを機に、川村氏は31歳という若さで事業を継ぐことになった。その直後、年商68億円で負債70億円という赤字体質に加え、公的介護保険制度の施行により収益サイクルが激変したため業績が急速に悪化。経営者になったばかりの川村氏にいきなり倒産の危機が訪れる。当時の川村氏が感じた苦悶は図り知れなかった。

稲盛和夫氏との出会い




まず早急にコスト削減や業務の効率化を図り、川村氏は必死の思いで経営危機をひとまず脱した。そして従来の経営手法では立ち行かないと悟り、ビジネス書などを参考に事業改善に努めた。しかし今ひとつ“これだ”といった経営手法を見つけることができなかった。
「ビジネス書通りにやるとある程度まではよくなるんです。でも、私が表面的なノウハウだけで指示するものだから、しばらくすると社員はどんどん疲弊していくんです。鍬の振り方は覚えるけど何のために鍬を振るのかを考えないんです。その時は気づけなかったんですが、当時は自分から相手の心へ歩み寄りの気持ちがなかったんですね」
経営について教えを乞おうと考えた川村氏は、2007年京セラの創業者・稲盛和夫氏が塾長を務める「盛和塾」の門戸を叩いた。そこで学んだのが、稲盛氏の実体験や経験則をもとに築いた経営哲学「京セラフィロソフィ」だった。
稲盛氏は、経営における判断基準は“人間として何が正しいか”だと説いた。そして、稲盛氏自身が深く自問し続ける“人間は何のために生きるのか”という命題を、塾生である川村氏にも問うた。人間としての正しい生き方とは、あるべき姿とは。そう心の内に問い直すうちに「経営とは経営者自身の生き方そのものである」ということに川村氏は気づいていった。

自分が変われば経営が変わる


盛和塾の学びを得て、川村氏がまず変えていったのは自分自身の言動だった。
「自分からまず率先し“こうあってほしい”という社員に対する強い気持ちを取っ払うようになりました。それを“明朗愛和喜働(めいろうあいわきどう)”という言葉で表しています。まず私自身が社内で断トツ明るく、断トツ仲良く、断トツに喜んで働くんです。挨拶も自分から大きな声でするようになりました。それまで挨拶なんて社員からするものだと社長風を吹かせていたんですが、そういった考えも改めていきました」



また川村氏はリーダーシップの取り方にも稲盛氏の教えを取り入れた。
「稲盛さんから学んだ“フィールドセオリー”という理論も経営に取り入れました。
それは、環境の良し悪しによって人の行動は左右されるという理論です。たとえば自分の行きたい方角に向かって流れる川に船を浮かべると、自ずとその流れに乗って目指す場所に辿り着くことができますよね。それと同じことを社員に向けてするんです。
まずは川の底部分となる企業理念を社員に浸透させることから始めました。理念を明文化した31の行動指針を、朝礼時などに繰り返し全体共有するようにしたんです。人としての教養を高めることも大切な環境作りだと考え、倫理研究所の発行する“職場の教養”を社員同士で読み合わせることも始めました。その際、お互いの感想を共有するなどして、社員が受け身姿勢にならないよう心掛けました。お線香の薫りが衣服や部屋に染み込んだ状態を、仏教用語で“薫修(くんじゅう)”というんですが、そんなイメージです。会社の想いを繰り返し伝え、頭ではなく心や細胞に浸透させていくんです」
さらに川村氏は社員を無理に引っ張ることをやめ、社員が歩きやすい道筋をそっと作ることをおこなう。すると社員たちは、誰に指示されることなく自らその道を前へ前へと進むようになっていった。

社員の「やりたい」を実現させる自由で自立した風土


社員の自主性が引き出され始めると、社内だけでなく社外に対する動きも活発になっていった。社員有志と義足女性ユーザーで共につくったコミュニティ「ハイヒール・フラミンゴ」もそのひとつ。義足であっても、オシャレや旅行といった人生の楽しみを謳歌できる社会を目指し、会員同士でさまざまな活動を行っています。また社員の希望により、地元企業として地域のイベントへもたびたび参加するようになった。川村氏は、社員からこんなことをしたいという話を聞くたび嬉しくなるのだと話す。

ハイヒール・フラミンゴ:「義足の悩みはあるけど、義肢製作所の男性スタッフには話しづらい」「同じ境遇の人が周りにいない」「同じような女性だけのコミュニティができたら・・・」 特定非営利活動法人「ハイヒール・フラミンゴ」は、そんな女性たちの声から日本で初めて生まれた義足の女性のためのコミュニティです。義足でもおしゃれをあきらめない女性の象徴「ハイヒール」のキーワードに、片足で凛として立つ「フラミンゴ」のイメージを重ねて名づけられました。「義足になっても自分らしく、行けるところではなく、行きたい場所へ行ける」そのような社会の実現を目指し、楽しく前向きに活動しています。

ハイヒール・フラミンゴホームページ



「仕事の場やそれ以外の場でも、やりたいことをどんどん実現していってほしいですね。申請してもらえば副業もできるようにしています。最近はドローンの会社をしたいという社員がいました。ずっとやりたかったことなんだと聞くと、やはり応援したくなります。また副業だけでなく、さまざまな働き方があっていいんです。社員が不自由を感じるなら変えていけばいい。依頼先へ直行直帰して会社に来ない社員なんかもいますが、その働き方が本人にとって最適ならばそれでよいと考えています。
定年は60歳ですが、本人の意思があれば70歳以降も働いてもらっていますし、現在73歳の現役社員もいますよ。障害がある社員も普通に働いています。その人の特性を生かせる仕事をこちらで用意すれば素晴らしい成果を出してくれるようになるんです。ですからわが社は障がい者雇用枠をあえて設けていません。また同じ理由から、外国人雇用枠も設けていません。イスラム教の外国籍社員がいるのですが、勤務時間中にお祈りをしなければいけないというので、最近お祈り部屋を用意しました。信仰を守りつつ仕事に打ち込める方が生産性も上がるでしょう。余談ですが、お祈りの部屋を用意することになったのは、彼と一緒に働く社員たちから提案があったからです。宗教・国籍・性別・趣味嗜好といったことに関わらず、仲間の多様性を認め合えるようになっている証だと感じています」

勝つための武器をつくるプロフェッショナル




川村義肢は、世界で戦うパラアスリートのためのスポーツ用の義肢装具制作も行っている。パラ・カヌーの瀬立モニカ選手や車いすテニスの国枝慎吾選手といった名立たる選手が、“勝つための武器”をつくりに同社へやってくるという。

瀬立モニカ(せりゅう モニカ):1997年11月17日 生まれ。日本のパラカヌー選手。東京都江東区出身。江東区カヌー協会所属。中学の頃に江東区カヌー部に所属し、2013年の東京国体を目指していた。しかし高校1年の時,体育の授業中に怪我をし、車椅子生活となった。その後1年間のリハビリを経て、2014年にパラカヌーという形で復帰。2016年リオデジャネイロパラリンピックに出場し、8位入賞。2019年8月に開催されたパラカヌー世界選手権で5位(女子KL1)入賞、2020年東京パラリンピック日本代表に内定した。
国枝 慎吾(くにえだ しんご):1984年2月21日生まれ。日本の男性プロ車いすテニス選手。グランドスラム車いす部門で、男子世界歴代最多となる計45回(シングルス24回・ダブルス21回)優勝の記録保持者。年間最終世界ランキングでは1位を8回記録している。シングルスでは年間グランドスラム(3冠)を計5回達成し、ダブルスではキャリアグランドスラムと4大会連続優勝を果たしている。パラリンピックではシングルスで2個・ダブルスで1個の金メダルを獲得。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)


「 “川村さんのところで作ればタイムが縮まるということだけ聞いて来ました”という方はお断りをしています。それは選手も社員も勝利のために本気になって取り組まなければよい結果は出せないからです。選手が本気なら、うちの社員もプロフェッショナルとして選手に負けない熱量で制作に携わっています」

川村氏は、自社で作る製品はどれも“完璧な製品”なのだと言葉を続けた。
「わが社では“最高“ではなく“完璧“な製品をつくります。
人間てね、快適なゾーンに入るとそこに居座るようになるんです。『最高の製品をつくった!』と満足すると、見事なまでにそこでピタッと成長が止まってしまう。だから私たちがつくる製品のゴールは、“最高”ではなく“完璧”なんです。しかし世の中に“完璧”なんてありません。それでも『完璧な製品をつくろう』とすることで、常に上を目指すことができるようになるんです」

企業理念を更新した理由




令和になった2019年を機に、川村義肢は企業理念を更新した。その理由をこう話す。
“私たちは健全な企業活動を続け、全ての社員と家族を幸せにし、社会の進歩発展に貢献します”。これが現在の経営理念です。以前は、“ソウルパートナーとお客さまのQ.O.L向上を絶対にあきらめない”というものでした。私たちは社員のことを“魂で共鳴し合い苦楽を共にする仲間”という意味を込めて“ソウルパートナー”と呼ぶのですが、社外の方にはわかりにくいため“社員”に改めました。Q.O.L(クオリティ・オブ・ライフ)というのもわかりやすく“社会の進歩発展”へと改めました。工場へ見学に来る小中学生や地域の方など、多くの人にわが社の理念を理解してもらえるよう、わかりやすい言葉に変えることにしたんです。
また、以前の理念にあった“お客さま”という言葉はあえて無くしました。私たち社員の中に、お客さまのことを想わずに仕事をする人間は1人もいないからです。例えば挨拶のできる会社であれば、社内に“挨拶しましょう”なんていうポスターを貼る必要がないでしょう。それと同じで、わが社の理念にわざわざ“お客さま”と書かなくてもよくなったということです」

One for all,All for one




「ラグビーでよく使う“One for all,All for one(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)”という言葉をアメフト流に解釈すると、”ひとりはみんなのために、みんなはひとつの目的のために“ということになるでしょう。個々のポジションで思い切りプレーして、全員でひとつのゴールを目指す。わが社でしていることと同じですね。ひとりで頑張って成功した時もうれしいですが、チームで頑張って成功した方が何十倍もうれしいじゃないですか。あの感覚です」

そう話す川村氏の表情に、アメフト少年だった頃の面影が映り込んでいた。
常に上を目指し、新しいフィールドを求め挑戦し続ける川村義肢。今後さらに魅力的なチームプレーが繰り広げられていきそうだ。

川村義肢株式会社
本社:〒574-0064 大阪府大東市御領 1-12-1
オフィシャルサイト:https://www.kawamura-gishi.co.jp/

パシフィックサプライ株式会社
本社:〒574-0064 大阪府大東市御領 1-12-1
オフィシャルサイト:https://www.p-supply.co.jp/



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