2024年11月29日 09:30
私の父は三重県の熊野市出身で、そこから大阪に出てきました。最初は漢方薬を売っていたのですが赤痢が流行っていたこともあり、訪問先から『今必要なものは漢方薬より、感染が防げるもの』と聞かされたそうです。それで父は、感染予防の基本である「手洗い」に着目し、手洗いと同時に殺菌・消毒ができる日本初の薬用石鹸液を開発。手先が器用だったので、自分で図面を引いて、今で言うディスペンサー(※1)を作ったんです。それが、我が社の始まりでした
液体石鹸は夏場の売り上げは良かったのですが、冬になると落ちるんです。当時は温水が出る装置が普及していなくて、冬は水が冷たいから手を洗わなくなります。冬は食中毒や感染症が減ることも、要因のひとつ。そこで冬場の売り上げをなんとかするために、うがい薬を開発しました
当時は高度成長期の真っただ中で、公害が大きな社会問題になっていたんです。工業地域で光化学スモッグなど悪い空気が蔓延して、近隣の住民や通学する小学生らが喉や目の不調を訴えていました。とくにそういった地域で、我が社のうがい薬をたくさん使っていただけるようになったんです。感染予防よりも、大気汚染に対する対策として受け入れていただきました。そこから我が社は夏は手洗い、冬はうがいということで経営が1年を通して安定してくこととなります
当時、一般的に流通していた合成洗剤は、コストを優先して環境影響にはこだわっておらず、石油系の洗剤が多かったんです。そうすると流れ込んだ排水で河川が汚染され、魚も死んでしまう。性能を上げるために配合されたリンが原因で藻やプランクトンが異常繁殖し、赤潮が発生したりしました。そういう洗剤による公害が、60~70年代にクローズアップされたんですその問題への対応として、一般販売していなかった商品を市場に出す決断を下す。
弊社は学校給食にもお世話になっていまして、現場では洗剤や石鹸も安全なものを使う意識が強くありました。そういったことから、排水が素早く分解されて、環境負荷が少ない植物系の食器用洗剤を使っていただいていました。これを一般家庭用に販売を開始したのが、1971(昭和46)年でした
2004年からボルネオで、熱帯雨林の保護と生物多様性の保全に取り組んでいるんです。これはヤシノミ洗剤の原料調達においても、環境配慮をする必要があると考えたからです。保全活動には、ヤシノミ洗剤の売り上げの1%を寄付させていただいています。また2010年からはウガンダで、『100万人の手洗いプロジェクト』も始めました。石鹸を使って正しく手を洗えば下痢性の疾患や肺炎が予防できて、100万人の子どもの命が守られると言われています。ユニセフが現地で行っているこの手洗い促進活動を、我々が支援していますまた新たに、「スナノミ症対策プロジェクト」を行っている。
スナノミ症とは、スナノミというノミが媒介になる皮膚疾患です。外でも裸足で生活する人が多い地域に見られるもので、スナノミが足に寄生してそこで卵を産むことで腫れたり、ひどい場合は全身の壊死につながったりと、かなり厄介なんです。アフリカや中南米、インドなど20カ国以上で深刻な問題になっています。我々はかねてからこの治癒薬を開発していまして、それがようやく完成しました
万博にはゼリ・ジャパンとして、ブルーオーシャンドームというパビリオンを出展します。テーマは『海の蘇生』。パビリオンにはAからCまで3つのドームがあって、それぞれで海の持続的な活用にちなんだ展示や各種のイベントを開催します。ここでぜひ、みんなで海について考えてほしい。海のことは万博での一過性に終わらせず、万博が終わってからも継続していきます
会社の規模を追いかけているわけではありませんが、ある程度の規模がないと、いろんなことができないのも事実なんです。今後の成長曲線の目標を描いていけば、おそらく目標とする規模が出るでしょう。ですがこれは、マーケットあってのこと。2052年が100周年ですが、そのころの社会がどんな姿になっているのか。たとえばカーボンニュートラル(※3)の社会といわれていますが、実際にはどうなるかなとも思うんです。そういうなかで、我々は社会にどんな貢献ができるのか
これからアフリカの人口はすごく増えますし、インド経済が伸びてくることも予想されます。それに世界経済は、アメリカと中国がこれからどう発展していくのかも関わってくる。我々には、グローバルに事業を展開していく意思があります。これを100周年に向けて、どういう姿を描いてやっていくか。そのことについては、万博が終わってからしっかりと考えていきます