お笑い芸人から社長へ転身!「人を笑顔にしたい」この思いが事業の原動力に

オオサカジン運営事務局

2025年05月19日 10:00






株式会社アシストスタッフサービス / 代表取締役 島津江 英樹 氏



創業から間もなく四半世紀となる人材派遣会社「株式会社アシストスタッフサービス」。同社の代表取締役 島津江英樹氏は、20代は芸人として活躍していたという異色の経歴の持ち主だ。仕事は変われど「まわりを笑顔にしたい」というブレない軸を貫く島津江氏に、事業の足跡と今後の展望について話をうかがった。




「人を楽しませるのが好き」が原点。大切に育てられた子ども時代


大阪のど真ん中で生まれ育ったという島津江氏。親族に同世代の男の子がいなかったことから、周囲からは大事に育てられたという。

実家があるのは今の朝日放送の近くで、一族は典型的な女系家族。姉と妹に挟まれて、親戚からはヒデちゃん、ヒデちゃんといって可愛がられていました

王子様のようだったという幼少期だが、ある時を境に状況が一変する。

転機になったのは幼稚園です。当たり前ですが、幼稚園に入ると大勢の園児の中の一人。入園したら、誰も注目してくれないことにショックを受けて。当たり前ですけどね(笑)。そこから、一人で本を読んだり積み木したりするような、ツンと澄ました性格に変わりましたね

そう言って笑う島津江氏。静かにひとり遊びをしながら、周囲をじっと観察するような子どもになったという。

もう一つの転機は小学校に入ってからです。おとなしい子どもだったのですが、ある時、授業で先生に当てられたときにボケをかましてみたんですね。そうしたら教室中がばかうけして。『あの寡黙なヒデちゃんがおもろいこと言うた』って。爆笑をさらったあの気持ちよさが今も残っています。これをきっかけに、教室で面白いことを言う子どもに変わりました


転機は小学5年。人間不信に陥る出来事が



周囲を笑わせることに目覚めた小学生時代には、もう一つ忘れられない思い出がある。

小学5年の時です。近所で家族ぐるみで仲良くしていた一家がいたんですが、そこのご夫婦が離婚しましてね。それまでその二人は、そばで見ると気恥ずかしくなるくらいラブラブだったんですが、離婚した途端、奥さんは元旦那さんの悪口をめちゃくちゃ言うようになって。女優さんのようにきれいな人が般若のように顔をゆがめて、悪口を散々ぶちまけている姿を見て、人間不信になりました

と苦笑いする。

「母親も、自分が寝た後はあんななってんのかな」とか、「向かいのパン屋のおばちゃんも、優しいけど裏にまわったらすごい顔してんのかな」などと思うようになったという。うつうつとそんなことを考えて過ごしていたところ、ある日ハッと気づいたことがあった。

それは姉とオセロゲームをしていた時のこと。白い面がにこやかな顔で、怖い顔が黒い面だとすると、白が黒になるなら、黒の方も白に変えられるんじゃないかと思ったんです。そうだったら、自分のまわりの人だけでも、白にしていきたい、笑顔にしていきたい。そんな風に考えるようになりました

そう思わないとメンタルがやってられなかった…と振り返る島津江氏。その気づきが芸人を目指す原点になったという。


サークル感覚でNSC(※1)に入学、順風満帆なスタートを切る



高校卒業後は大学に進学。人の心に興味があったことから、心理学を専攻したんです。そして在学中にサークル感覚でNSC 吉本総合芸能学院(※1)に入学しました。芸人であかんかったら就職したらええわ、ってくらいの軽い気持ちでしたね。芸人は狭き門で、卒業生200人から舞台に立てるのはたったの5人。ありがたいことにその狭き門を通過することができたんです


(※1)NSCとは、吉本興業が運営するタレント養成所のことを指します。正式名称: 吉本総合芸能学院(Yoshimoto New Star Creation)、略称: NSC。お笑い芸人やタレントを目指す人材を育成する学校です。1982年に大阪で開校し、1995年には東京にも開校
それからはとんとん拍子だったという。ABCお笑い新人グランプリ審査員特別賞、NHK上方漫才コンテスト最優秀賞と、名だたる賞を受賞し、芸人として順調なキャリアを踏み出した。

NSC の同期はメッセンジャーやジャリズム、1つ上にはナインティナインさん、1つ後輩は中川家や陣内智則。当時は吉本印天然素材(雨上がり決死隊、FUJIWARA、バファロー吾郎、チュパチャップス、へびいちご)が爆発的な人気で、自分たちもそれに続くものと思っていました

と振り返る。売れるペースがダウンタウンと同じくらいとマネージャーから言われるほどだったが、徐々にその勢いは失速していった。

当時は『センスでいける!』と思いましたが、人を笑かすのは簡単なことではありません。みんな苦しみながらネタを書いて、舞台で披露して、お客さんの反応をもとにブラッシュアップしている。そらみんな、ノイローゼになるほど努力しています。しかし自分たちはスタートダッシュが良かったからか慢心してたんでしょうね。『俺はそんなんせんでもいけるねん』って勘違いをし、芸を磨くことがおろそかになってしまいました


芸人から社長へキャリアチェンジ!古巣が起業のアイデアに



島津江氏は東京進出して、冠番組を持って…という、当初抱いていた青写真はだんだん現実と乖離。29歳で結婚し、子どもを授かったことを機に芸人の道に見切りをつける。
「芸人はグータラ。朝決まった時間に起きて、出社する…という生活は合わんと思ったんで、サラリーマンではなく起業の道を考えました」と島津江氏。そこでひらめいたのが人材派遣業だったという。

このアイデアのもとは吉本での経験です。吉本興業もある意味では派遣会社。依頼に応じて芸人を派遣し、ギャラを支払い、残りを利益とする業態。これを目の当たりにしていたことが発想転換のベースになりました

人材派遣だと仕入れは不要。商品である人材は自分で家賃を払う。商品が自分の足で現場に行き、仕事が終われば自ら戻ってくる。在庫を持つ必要がないのでリスクを最小限に抑えることもできる。「ボロい商売や」と思い派遣業に乗り出した。




時代の追い風を受けて急成長。「人生チョロい」!?



創業は2001年。1999年に派遣法の改正(※2)があり、派遣という新しい働き方が注目されていた時代だった。
(※2)1999年の派遣法改正は、労働者派遣事業の対象業務を大幅に拡大し、派遣労働者の保護を強化することを目的として行われました。対象業務の原則自由化、従来は、政令で定められた26業務のみが派遣対象でしたが、改正により、原則として全ての業務が派遣可能となりました。ただし、建設、港湾運送、警備、医療、士業など、一部の業務は引き続き派遣禁止とされました。
当時は今ほど規制がなく、派遣業への参入障壁が低かった時代です。吉本の経験を活かすといっても、いきなりタレントプロダクションはハードルが高い。スキルがなくてもできる業種と考え、若者を集めて物流スタッフやコンサートスタッフ、製造業など、力仕事の分野でまずは始めました

テレビでも大手派遣会社のCMがどんどん流れていた頃で、募集をかければ大学生が登録に大勢詰めかけた。

初年度から利益がドンと出て、翌年からも増収増益。家は建てたし、車は左ハンドル。『芸人してた10年返して欲しい!』って思ったくらいです。もちろん、多くの人を扱うためトラブルもありましたが、それを含めても天職だと感じました

「人生チョロい」とまで思っていた矢先、2008年にリーマンショック(※3)が起こる。

(※3) リーマンショックとは、2008年9月15日にアメリカ合衆国の投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻したことをきっかけに、世界的に起こった金融危機のことです。これにより株価の暴落・金融機関の破綻・世界的な景気後退・失業率の上昇・企業の倒産などが多発しました。

リーマンショックで試行錯誤、そこからのV字回復



当時『派遣切り』という言葉が生まれましたが、これは『派遣会社切り』でもあります。どんどん同業他社が潰れる中で、うちもいよいよかと思いました。しかし従業員もいるし、簡単にはやめられない。そんな中である人から言われたのは『仲間と協業してみたらどうか』というアドバイス。異業種交流会に誘われたんです

それまでも異業種交流会の類はたくさん誘われていたという。

正直今までは全く興味がなかったんですよ。そんなん何がおもろいん?傷の舐め合いちゃうん?とまで思ってて。また自分は酒も飲まないんで、そういう会合には興味がありませんでした。でも、これまでと同じことを繰り返していても同じ結果しか生まれない。何か変えないと事態は好転しないとも思ったんです




今までのやり方を変える時期と思い、敬遠していた異業種交流会に思い切って飛び込んだ。

交流会で知ったのは、意外と世間の人は派遣会社が何をしているか知らないということです。具体的に『こんな人材をこんな業界に派遣できます』ということを伝えると、相手の方はアンテナを張ってくれます。そこから『こんな人を紹介してほしいっていう会社がある』『ここの大学生に仕事紹介したって』などの話につながる。そこから仕事に発展するんです

いきなり知らない人からビジネスの話をされても誰でも警戒するが、信頼できる人からの口コミだと話がスムーズに進む。島津江氏が人との出会いと信頼関係を大事にするうちに、気がつけば事業は回復基調に。リーマンショックから2〜3年で業績は以前の水準へと戻っていった。
また、同業者と積極的に協業するのも懐の深い島津江氏らしさだろう。

よく『同業他社と差別化は?』って聞かれますが、そもそも同業でも競合と思ってないんです。派遣って、ご縁と相性。ピタッとハマるパズルのピースを見つける仕事だと思っています。このピースを少しでも多くすることを考え、仲間と一緒に『一般社団法人 人材ビジネス協会』(※3)という組織を立ち上げました

※3 一般社団法人人材ビジネス協会は、人材ビジネスに関わる企業が連携し、業界の発展と信頼性向上を目指す団体です。https://jinzaibusiness.or.jp/

協会では中小の派遣会社同士が情報をシェアして、助け合いながら仕事を回しているという。加盟会社は関西だけでも130社にのぼる。「ひとりではできへんことも、みんなとなら実現できる。ほんまに、ええ仲間に恵まれてます」と目を輝かせる。

キャリアに一貫するのは「人を笑顔にしたい」という思い



最近は『派遣業やってます』だけでなく、「島津江さんって何屋なん?」と聞かれるくらい、いろんな相談がきます。引っ越し先の紹介から弁護士探し、果ては別荘まで(笑)。今、力を入れているのは琵琶湖畔のコテージ計画です。大自然の中で家族や仲間が集まれる場所を作って、焚き火したりBBQしたり。『笑顔の溜まり場』を作るのが夢。ゆくゆくは、気軽に仲間が立ち寄れる飲食店も手がけたいですね


島津江氏の人生を貫くのは「笑顔」というキーワードかもしれない。手がける事業が変わっても、誰かの笑顔が指針となり、島津江氏を行くべき方向へと導いてきたのだろう。



僕の根っこにあるのは『人を笑顔にしたい』って気持ちです。芸人時代は舞台やテレビの向こうのお客さんを笑わせてたけど、今は目の前の人を笑顔にする方が性に合ってる気がします。『縁』がつながって、『円』になって、最後にはみんなで『宴』。そんな流れができる仕事がしたい。お金も大事。でも、人が集まってワイワイできる場所を作れるって、最高ちゃいます?


株式会社アシストスタッフサービス
本社:大阪市北区大淀中3-6-16
オフィシャルサイト:http://www.assistss.jp/


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