タンポポ精神で、一度は潰れた会社を再建 行動派にして人情派の社長
株式会社プレス技術研究所 / 代表取締役社長 河原正和 氏
厳密に言うとウチの会社は一回、潰れてますからね
暗い過去を笑いながら話すのは、株式会社プレス技術研究所の河原正和代表取締役社長だ。

株式会社プレス技術研究所(以下プレス技研)はプレス加工用省力機械の製造を行う会社として、1956(昭和31)年に創業。プレス加工工場に自動化装置、省力化装置を提案し、受注を得ればその機械を製造する。メーカーであると同時にコンサルタント、エンジニアの役割も担う。今も国内で大手プレスメーカーを除けば、このような装置メーカーは希有な存在である。創業者は、河原氏の父親。
親父は2年のシベリア抑留から復員して鉄工所に勤めて、それから大阪府の産業能率研究所の技術系職員に採用されました。当時は技術系の知識を得るにしても、数少ない専門の雑誌しかなかったと思うんです。なので関東にこういうことをやっている人がいると聞いたら、手紙を書いて訪ねていくことを手弁当(※1)でやっていました
※1 手弁当とは、ビジネスシーンにおいては、報酬などをあてにしないで、奉仕的に働くことを意味する言葉。
そうして技術を研鑽し、実地を重ねた縁から金型の製作やプレス加工を行っている工場を訪ね、技術指導をしていたそうだ。
それを続けているうちに先生と呼ばれるようになったそうですが、『先生は口ばっかりや。オレらは自分らでやらなあかんから大変やねん』というようなことも言われていたみたいで。それやったらと、自分でプレスの送り装置を作り出したんです。それが、うちの最初ですね。とにかく技術のことが好きで、好きで仕方がない親父でした

創業当初からプレス技研の技術には高い信頼があり、経営は安定していた。河原氏は次男であり、自分が家業を継ぐとは考えていなかった。大学卒業後は時計や貴金属のセールスマンとして働き、成績も良く、充実した日々を過ごしていたという。そうして、3年が過ぎたころだった。
親父から『ぼちぼち、戻ってこい』と言われまして。高校生のころに親父の会社でアルバイトをしていて、仕事の内容も多少は知っていました。興味がなかったわけではないですし、それなら親父の会社で作ったものを大きく売っていきたいなと思い、入社することにしました
父が創業した会社に入社するも、
バブル崩壊の災厄が降りかかった
それから時間が流れ、創業者である父親が一線を退く。身内以外でのリリーフ登板した1年を経て、河原氏の兄が社長に就任。自身は営業部長の立場だった。ときは1990年代に入ったころ。ほどなくしてプレス技研に、バブル崩壊の災厄が降りかかる。
バブル崩壊の直前に、三重県の菰野町に建てていた工場が完成したんです。工作機械を買って社員さんも雇わせていただいたのですが、バブル崩壊で数年のうちに売り上げが激減しました

それから経営は傾き、資金繰りは苦しくなる一方だった。なんとか倒産は免れたが、会社整理の手続きをして再建の道に入る。
このときに一回、潰れたようなものです。当時は新聞に『プレス技術研究所、事実上の倒産』と書かれましたし。20億円の焦げ付きを抱えていましたが、兄と私で続けていこうと。債権者の方々に『続けさせてほしい』とお願いし、許諾をいただいて再スタートしました
銀行との取引はゼロになり、仕入れ先には現金で支払わなければならない。その現金を用意するのも、簡単なことではなかった。そんな困難期に父親に任命され、代表取締役社長に就いた。
父は『これからは外を知っている者でないと、会社の経営はできない』と。兄は技術系でしたから『お前がやれ』と言われて、受けました。社長になってからも、営業で売り歩いて『お金をください』と言って回って、債権者のところに行って土下座して回っていまたね
愚直にそれを続けた姿勢が債権者や取引先に伝わり、支援や応援の声をもらうようになってきた。そうしてようやく風向きが変わってきたかと思ったころに、次々と外的要因による苦難に見舞われる。
ちょっと良くなってきたかなと思ったころに、リーマンショックでまた落ちて。その後の東日本大震災では、業界全体が止まってしまいました。今にして思うと、私はそういうものを受ける立ち位置だったのかなと思います。そのころも営業で動き回っていて、引き続き支援してくださり、大丈夫かと、声をかけていただけるお客さんもたくさんいました。それがあったからこそ乗り越えられましたし、いちばんはやはり、残ってくれた社員さんですね。その存在があったから、ここまでやってこれたのだと思います
何度も床に頭をこすりつけてきた。
そんなことは、大したことではない
誇張表現ではなく、この時期に河原氏は、本当に何度も床に頭をこすりつけてきたという。だが「そんなことは、まったく大したことではありません」と、また豪快に笑う。社員を、会社を守るためなら、自分のプライドなどちっぽけなものだと。
エンジニアはプライドを持っていて、それを捨てきれないところがあるのかもしれません。それはそれで、いいことでもあると思います。でも私は自分のプライドなんて、しょうもないもんやと思っていますから。自分より立派な人なんて、世の中にたくさんいます。そんな人と会ったら、自分なんて小さいなと思うんです。『自分の前世はカナブンやったから、そらしゃあない』。そうやって自分を納得させたら、土下座なんかなんともないですよ
トップが自らが各所に足を運び続けて、次々に押し寄せた荒波を乗り越えて経営再建を果たした。もちろんそれが自分の手柄だとは、河原氏は微塵にも思っていない。

利益処分をしてくださった取引先もたくさんあり、10年前くらいに一応は片づきました。24年ほどかかりましたが、とりあえず負債はなくなった状況です。その間にご支援いただいた取引先の方々には感謝しかありませんし、社員もみんな頑張ってくれた。だからこそ、健全に経営できる今の状態になれました
経営を立て直し、保育園設立などで
地域や従業員への還元に取り組む
経営を立て直し、今に取り組むのは従業員や地域への貢献や還元。そのひとつとして、会社の敷地内に保育園を開園させた。コロナ禍以前から構想はあったが、コロナで社会が混乱している時期に社内で行った取り組みによって、河原氏はその必要性を確信した。

小学校低学年の子ども3人を抱えているパートさんがいまして、コロナで緊急事態宣言が出たら仕事を休まないといけないとなりました。小さい子どもを、家に置いて働きには出られませんからね。それならと会社の食堂の半分を子どもの部屋にして、遊ばせるのではなく、そこでワークショップをしたり、私たちで考えたカリキュラムをやりました。慣れてきたら「子ども社員」としてタイムカードを打刻し、コピーの仕事をお願いしたり、朝礼のリーダーもしてもらったんです。子どもたちは前の日から家で練習してきて、緊張しながらもしっかりとやってくれました
話を聞くだけで、微笑ましい光景が目に浮かぶ。社内に子どもがいる非日常な毎日が続くうちに、社員たちにも変化が表れた。
それまでは食事を終えたら各自が三々五々に散っていくのですが、あの時期はみんなが食堂で子どもを囲んで、わいわい言っていたんです。子どもを通じて、社員同士のつながりができた面もあると思います。やっぱり、子どもから得るパワーはすごいですよ。それを経験して子どもの存在は社内的にも、いろんなことにつながってくるのだと思いました。それであらためて、社員さん第一なんだと。社員が育てている子どもまで、私たちがいい影響を与えたらなと思いました

会社の敷地内に設けた保育園は、社員を対象にしただけのものではない。長く事業を営んできたこの地域の子どもも、ここが親の通勤路の途中であるなどの場合も受け入れる。さらには保育だけではなく、春からは就業支援事業も始める。本業と関係のない事業に手を広げる考えについては、こう語る。
いちばんはプレス技研本体に、もしもの事があったら、本業以外で支えられるようにしたいという考えからです。次にコロナ禍みたいなことがあっても、今後はあれほど国から補助が出るとは思えないんですよ。そうなっても保育園やほかのところで、わずかでも収益を上げてお互い支え合えたらと思っています。そうしてお互いの相関関係が広がっていったら、もっといろんなことができる。私は、基本、人の為になる事、それをやりたいんです
風に乗ってどこにでも根を張り、
縁をつなぐ「たんぽぽ精神」
先の河原氏のコメントの上辺だけを捉えると、ビジネス的にドライな考えと映るかもしれないが、保育や就労支援は社会的な課題でもある。そこに手を差し伸べる行動は、日本の未来を見据えてのものにつながる。明確に言葉にはしなかったが、自身が会社再建に駆けずり回っていたころに周りから得た温かい支援を、巡り巡って社会に還元しようとしているのかと思える。そんな河原氏が、座右の銘としているのは「たんぽぽ精神」。
たんぽぽって風に乗って飛んでいって、どこにでも根を張って花を咲かせるじゃないですか。外的要因に左右されず、なにがあってもそこで精一杯、やれることをやろう。それが、私の考え方なんです。できない理由を並べたら、たくさんあるかもしれません。だけどそれを言っても、話になりませんから。どこかで芽吹いたたんぽぽが、また飛んでいく。それが広がっていって、『あのときの人やんか』といった縁ができる。私は、それを大事にしたい
プレス技研はこれまで、70余年の歴史を重ねてきた。現在のトップが念頭に置くのは、社を100年企業にすること。それを目指して行動派にして人情派の社長は、変わらず動き続ける。
株式会社プレス技術研究所
本社:大阪市鶴見区横堤1-5-44
オフィシャルサイト:https://www.press-giken.co.jp/
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