一代で「ホルモン焼肉」というものを定着させ 全国にFC店を生んだナニワの焼肉師匠
イワサキフーズ株式会社 / 代表取締役会長 岩崎幹永 氏
イワサキフーズ株式会社はいわゆるホルモンと呼ばれる牛内蔵と精肉の卸販売に、焼肉店の経営などを主事業としている。その創業は1980年。父親から独立を促され、辿り着いた職種は縁がなかったホルモンの卸売りだった。その成り立ちを代表取締役会長 岩崎幹永氏が振り返る。
私の父親は繊維やプラスチックの射出成型の会社などを経営していました。私も大学を出てから父の会社で働いていたのですが、37歳のときに突然『あなたは独立して、なにか別の事業をしなさい』と言われたんです
そうして父親が所有していた、梅田のマルビルの近くにある物件を譲り受けた。とはいえ、なにか具体的にやりたいことがあったわけではない。融資に関わる銀行支店長に物件を見てもらうと「この辺りに焼肉屋さんがたくさんあるから、ここで焼肉用の内蔵の卸をやるのがいい」とアドバイスをもらい、仕入れ先まで紹介してもらえることになり、商売を始めることとなる。
当時、肉の内蔵のことは、まったくわからなかったんです。だから、父親と同年代で焼肉屋さんをやっておられる方たちに教えを請いにいったり、とにかく無我夢中でやっていました
ようやく事業が波に乗り出し、当時簡単には手に入らなかった念願の牛1頭分を購入する権利を得ることとなる。それは仕入れ価格が下がるメリットがあった反面、売れ残ってしまう部位が発生する難点も。やがてそれは、作業場の冷蔵庫を圧迫していくこととなる。
最初牛の残った部位は内蔵を取り扱う業者に、卸値で安くまとめて引き取ってもらっていました。でもそれなら自分で焼肉店をやって、そこでその部位を出したらいいのではないかと考えたんです。そうすれば必ず、安くて美味しいものが提供できますから。ちょうどその時にマルビル近くの物件が立ち退きになったので、曽根崎で焼肉店を始めました
仕入れたホルモンが余るなら、
自分で焼肉店をやればいい
焼肉店は開店と同時に繁盛した。それは、会長の「安くて美味しいものを」の信念があってのものだった。肉を焼くスタイルは、七輪による炭火焼き。これは肉本来の魅力である「おいしい肉を、最もおいしく届ける」方法。ただ当時のキタやミナミの繁華街に出店していた焼肉店は、炭火焼をほとんど採用していなかった。そんな物珍しさもあったが、排気ダクトなどの設備投資が抑えられ、肉は自社で仕入れているので、なによりもお客様にリーズナブルな価格で提供できたのである。

もともと卸で残る部位なので、当時1人前は300円くらい。その量は150~200gくらいか、もっとあったと思うんです。正確に測らなかったのでわからないんですけど(笑)。1人前の量を多くすることで、普通のお店の倍くらいの量の瓶ビールが出るんですよ。ビールはセルフでお客さんに抜いてもらって、30坪くらいの店やのに1日で250本くらいは出ていましたから。ビール会社の人が来られて、腰を抜かしていました(笑)
店舗を増やしていくと同時に、お店の賑わいを聞きつけて、岩崎会長に焼肉店経営のノウハウを学びたいと希望する人が多く現われてきた。
お金はいらないから、ここで働かせてくれ。ノウハウを教えてほしいという人が、ずいぶん来られましてね。私は『それどころじゃない、忙しいから』と断っていたんです。 そんなときに大手企業のある方から、これフランチャイズで展開したらどうですかと言われたんです。最初はその企業の宣伝みたいな方向だったのですが、その彼が会社を退職してうちに入社しまして、そこから本格的にフランチャイズ化が始まり、店舗経営の始め方や運営、経営のノウハウを指導をするようになりました
「気が付いたら、神輿に乗せられていたんですね?」と話を会長に向けると、「そうそう。それからはさらに忙しくなって、大変だったんですわ(笑)」と相好を崩す。北海道や沖縄に日帰りで出向き、東京では1泊2日の間に3ヶ所で説明会を開くなど、全国を飛び回ったそうで、今ではFC店舗は、全国で約80店にまで拡大した。それが「炭火焼肉 岩崎塾」の所以でもある。
元々出店資金の借り入れが困難で、保証人なしで300万円まで融資が受けられて、審査も比較的通りやすい国金(日本政策金融公庫)にも断られた方ですが、うちでFC店を開業し、家を建てた方や、そのように成功して毎年、盆暮れに感謝のお電話をいただく方もおられます

多く大成した者がいる一方で、成功をつかめなかった者もいる。会長は成功者を排出したことを喧伝するのではなく、敗れてしまった者に心を砕く優しい人物。
残念ながら、みなさん全員が成功するわけではないんですよね。私としては関わったからには、みんなに成功してほしい。でも、そうならなかった方もおられます。それを考えると、接客や盛り付け、料理の出し方など、より細かなところまでしっかりと教えられるカリキュラムを作って、もっとフォローをして成功に繫げられなかったのかと、反省のほうが大きく心に残っています
ホルモン焼肉の開拓者は
次の時代へ新たな舵を切る
直営店の運営、FC店の指導と並行して、2020年代を迎えるころに新たな業態となるうどん店「手打ちうどん がんちゃん」を開業。現在では曽根崎と本町に店舗を構える。一見して焼肉とは関わりがないように思われるうどんに目をつけた点にも、岩崎会長の商売への才覚が表れる。
牛一頭をむだなく使うべく焼肉店をやっていても、正直まだ余る部位が出てくるんです。たとえば、マルチョウと呼ばれる小腸なんかがそうですね。これを油で揚げて“かす”にする業者もあって、そこに卸すこともできますが、それでは大した利益にはならない。大阪にはかすうどんの文化があります。だったら自分のところでうどん店を作って、小腸を使ったホルモンうどんを出したらいいのではないかと思ったんです。同じように余りがちなすじ肉も、牛すじうどんとして出しました。おかげさまで、『手打ちうどん がんちゃん』も利益を出せています。今は直営で焼肉店舗が3店舗とうどん店が2店舗ありますが、食材のロスがまったくなく、環境にも優しい、すごくいい状態になっていますね
岩崎会長の根っこは、やはり商売人。それと同時にイワサキフーズ社を統べる者として、社のこれからの在り方も目に映している。
以前はガスコンロで肉を焼くと、ガスの匂いが肉についてしまっていたんです。でも最近は、そういうこともなくなった。またこれまでうちでは七輪と炭火でしたが、時代とともに煙と匂いを敬遠されるお客様が増えてきました。そんな要望に合わせて炭火から煙と匂いを吸い込む無煙のやり方に切り替えていこうと、曽根崎の本店で試しています。それと同時に単価は上がりますが、最高級の黒毛和牛の内臓を提供して、お客様の満足度を高めていく取り組みをしています。生まれ変わってというより、今までやってきたことを伸ばしていきたいという思いです

1980年に開業してから45年。自らがフロンティアでもあった「ホルモン焼肉」は、すっかり世間に定着した。とはいえ、時とともに消費者の嗜好は移り変わる。そんな中でも、岩崎会長の不変の想い「安くて美味しいを提供し続ける」は、次の世代に引き継がれるにちがいない。
イワサキフーズ株式会社
本社:大阪市北区兎我野町5-18
オフィシャルサイト:https://iwasaki-foods.jp/
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